書籍・雑誌

私のルパン三世奮闘記~アニメ脚本物語~

河出書房新社、2000円(税抜)。

10年前から刊行されてきた「ルパン三世officialマガジン」連載を
一冊にまとめたものとのこと。

著者・飯岡順一は、
アニメ「ルパン三世」のテレビ第1作から関与する「文芸担当」。

ストーリーなど、番組の展開を考えながら、
テレビ局と脚本家の調整役などを行う、
「プロデューサー」に近いポジションのようだ
(ただし、プロデューサーは別にいる)。

読んでみると、感情の起伏の激しい人物のようで、
周囲のスタッフとの衝突寸前の事態を何度か経験している
(実際は「調整役」のため、腹に収めて済ませたようだが)。

それ以前に、文章からして気に入らない人物には容赦ない。
あの巨匠・「宮崎駿」は特に快く思っていないらしく、
高名な「カリオストロの城」について、
自分が関与した映画化プロットを盗用した…
とまでは言っていないが、それに近い表現で述懐し、
「脚本をメッタクソにする人」とまで記す。

これでも単行本化するにあたって、
連載当時のキツい部分をだいぶ削ってマイルドにしたらしい。

その連載当時の文章に、もの凄く興味があるが
それはぜいたくというものか。

一方で、大和屋竺や浦沢義雄、柏原寛司(いずれも脚本家)
といった信頼を置く人々には、賞賛を惜しまない。

まあ、このくらいの「クセ」ある人物だからこそ、
40年近く、同一番組に関わることが出来たのだろう。

今では傑作の誉れ高い「緑ルパン」第1シリーズも、
当時は低視聴率にあえぎ、制作局・よみうりテレビの社員から
関西弁で責任を追及される憂き目に遭う。

一方で、日本テレビが制作した第2シリーズ(赤ルパン)は
初回から25%の高視聴率を稼ぎ出し(途中で30%突破)、
3年間のロングラン放送を達成する。

意外だったのは、番組では「監修」とクレジットされていた
映画監督・鈴木清順の存在。
実際は名前だけだろう…と思っていたのだが、
本当に脚本会議に毎回顔を出し、ダメ出しもしていたそうだ。

よみうりテレビ制作に戻った
「ピンクルパン」こと「PART3」は視聴率もあまり良くなく、
1年間で終了するが、途中で映画「バビロンの黄金伝説」も制作される。

その後、今まで続くテレビスペシャルでも、
著者は離脱と参加を繰り返しながら関与を続けていく。

またその間には、フランスでのリメイク企画「ルパン8世」
制作に向け、モンキー・パンチらと1週間パリに滞在。
その滞在記にだいぶ紙幅を割いており、リアルな分、読み応えがある
(なお著者はプロジェクトから外れたとして、
その後の展開が書かれていないが、
「ルパン8世」の企画は途中で頓挫してしまう)。

このように、長年にわたってアニメ「ルパン三世」に
携わってきた著者でしか書けない事柄が多く散りばめられ、
「こういう作り方をしていたのか」という発見が多かった。

ただ、各シリーズにおいて脚本家ひとりひとりに焦点を当て、
作品を逐一解説していく部分はやや冗長に感じる。

また、映画「ルパンVS複製人間」にほぼ触れていないこととか、
いわゆる「押井守版ルパン」の説明が不足していたり
(著者としてはもはや触れたくないのかもしれないが)、
イザコザで悪名高いOVA作品「風魔一族の陰謀」を
完全スルーしているのはちょっと残念。

ほかにも、登場人物の説明が不足していたり、
時間軸が行ったり来たりして読みにくい。
恐ろしいほどに誤植が目立つことは致命的ですらある。

このあたり、この単行本に、著者のような優秀な「文芸担当」が
必要だったのではないか、と思ってしまったほどだ。

何はともあれ、また「ルパン三世」のテレビアニメを見たくなってしまった。
青春時代(ろくでもなかったけどね)を思い出す。
DVD借りてみようかな…。

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21世紀の落語入門

小谷野敦・著、幻冬舎刊。

広瀬和生「落語評論はなぜ役に立たないのか」を読んで
胸くそ悪くなった方にはぜひ読んでもらいたい。

この広瀬本への批判も含まれているが、
「生の落語を聴かない奴は落語を語る資格なし」と言いたげな
昨今の落語ブームに警鐘を鳴らす、そんな本だ。

広瀬や堀井憲一郎のように、
毎日なんらかの落語会に出向いては評論文をしたためているような
「落語ホリック評論家」は信用するな、と説く。

初心者が聴くなら、「過去の名人の録音でもいい」とし、
生の高座は見られる環境にあれば見ればいい、程度。
我々のような地方在住者は快哉を叫びたくなる。

また、「誰それは名人」という「通説」を信用しなくてもいい、と説く。
たとえば、著者は「志ん生はよくわからない」と断じる。

これはよくわかる。確かに、みな名人だ、名人だ、と言うけれど
音源を聞いてもおじいさんがムニャムニャしゃべっているだけにしか聞こえない。

こういうと「お前は素人だな」と笑うのが落語ファンだったりするのだが、
著者はそこにくさびを打ち込んでいるのだ。

ただ、痛快なのは序盤だけで、中盤以降はやや読みにくくなる。

博覧強記な著者は、落語同様に好むという歌舞伎や、
クラシック音楽、ヨーロッパ文学などでたとえ話をするのだが、
これが門外漢にはチンプンカンプン。

あと、落語に限らず「◯◯は傑作だ」「◯◯はくだらない」と言った、
著者の個人的趣味に基づいた断定的記述も多く
(ほぼ誹謗中傷レベルの危なっかしい部分もある)、
くしくもこういう部分は広瀬本に通底する。
まあ、「毒をもって毒を制する」とでもいおうか。

小難しくて意味不明な文、
趣味を押しつける毒々しい文…これらの中に、
スカッとする部分が出てくるから、
よけいにスカッとする。
そんな本である。

寄席もそうだ。著者も言うが、
面白い落語家もいるし、つまらない落語家もいる。
だから、寄席は面白い。
…おっと、寄席礼賛をしてしまったではないか。

この本は「スカッとするための本」ではなく
「21世紀の落語ファンへ贈る入門書」のはずなのだが、
後者としては、やや心もとない…のは、ご愛敬かな。

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落語家の通信簿

三遊亭円丈著。祥伝社新書。
「落語家が落語家を評論する」、著者曰く「世界初」の書。

評価を下す同業者(本人含む)は53名。
鬼籍に入った大師匠から、長老、笑点メンバー、
立川流、円楽党、若手ホープ、上方人気落語家まで…。

にわか落語ブームで「落語評論家」が書いた本を幅を利かせる中、
こういう人々が書く本は、
うさんくさいんだよな…とこの本を著したという。

自分じゃ落語もできないくせに、
「この落語家が一位!」なんてぬかすな、と。
ああ、こりゃ堀井憲一郎だな、と。

異常な数の落語会を鑑賞し、いつ仕事してるの?と思うような
「落語依存症」もいると。これは広瀬和生。

こういう評論家を標榜する人たちと比べ、
円丈自身は、常日頃から他の落語家の口演を
いつも聴いているわけではないという。

ろくに聴きもしないで同業者を批評するな、
という声もTwitterで聞いたが、
序章で円丈ははっきり、
「落語家が、人の落語ばかり聞いてるわけにもいかない」と言っている。

広瀬みたいに、異常な回数の落語鑑賞をした上での評論、
というのも常軌を逸しているが、かといって
あんまり落語に触れていない人の評論は、
あまり信用はできない。

だったら、プロがプロについて語ってやろうじゃないか。
そして円丈はこの危険な賭けに出た。

序章で円丈は「落語の楽しみ方」を提案していく。
よくあるガイド本にもこんな一節はあるが、
プロ中のプロは、ジョークを交えながらレクチャーしていく。

「落語なんて娯楽なんだから、楽しめばいいのだ」
という見方には全面同意する。
それこそ広瀬のように、過去の誰それの口演を引き合いに出して
比較したりなど、現実味に乏しい。

落語は高尚な芸術なんかじゃない。娯楽なんだから。
その「たかが娯楽」に落語家が身を削って腐心する。
それを客は高みの見物としゃれ込む。それがいい。

何も予備知識をため込んで理論武装して、
落語家に対峙する必要はない。
そんな考え方を、円丈は序章で教えてくれる。

そして実際に落語家を評価していくのだが、
もちろんこれは見てのお楽しみ。

評論する53名のうち、
知り合いの落語家が多いのはしょうがないが、
あまり接触がない落語家で、人気落語家とされる人たちも、
俎上にあげている。

通して読んでみたが、本気だかどうだかわからないところもいい。
自らを採点してみせるところなんかは、円丈節の真骨頂だ。
先述の堀井や広瀬、福田和也あたりの
「落語評論家を気取る落語の素人」へのイヤミも痛快である。

中でも談志以下、立川流の人気落語家を論じる章は
ネット上で話題になっている
(それでこの本を買ったのだが)。

立川談志に対しては、辛口ながら思い入れも感じさせる一方、
「談志イズムの継承者」立川志らくへの書きぶりは辛辣で、
「おすすめ演目」欄に至っては「おすすめしない!」。

確かに、師匠譲りの「高慢」「傲岸」が気になる人には快哉…なんだろうが、
いいのこれ?と思ってしまう。
読んだ志らく本人は「私はあんな書き方しません」とさすがに少し腹を立てている。

円丈としては、くぎを刺したつもりなんだろう。
「お前、それでいいと思うなよ」、と。
志らくやそのファンが反応することを分かっていて、あえて書いている。

近年の円丈は老いもそろそろ隠せなくなっているが、
やはり牙は磨いているのだ。

そう、若き日の円丈がその牙をむいた、兄弟子の三遊亭円楽についても、
相変わらず辛辣な評価を与えている。
弟子は促成栽培で甘やかしだから大した落語家もおらず…と一門にも冷酷だ。

しかし実際、円楽会で客が呼べる落語家というと、
六代目円楽くらいしかいないのも事実であり…。

口跡…いや筆跡は過激だが、はたと膝を打つ一冊であったと思う。


落語家の通信簿(祥伝社新書)

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「藝人春秋」水道橋博士

「藝人春秋」水道橋博士(文藝春秋)。

たけし軍団の一員「浅草キッド」の、
ちっちゃい方、髪の毛が生えてきた方の著書。
その署名通り、芸人筋には大変評判となっている話題の本だ。

年末近くにネット書店で注文したところ、
初版売り切れで、重版入荷待ちを食らった。
奥付には「12月25日第3刷」とあった。
最高のクリスマスプレゼントであった。

冒頭の序文は、
あえて読点(「、」)を排除したと思われる、
いささか読みにくい文章で、びっくりする。
ただこれは「作戦」なのだろう。

この著書は、博士が雑誌などに寄稿してきた
エッセイ約15本(一部書き下ろしあり)に、
「後日談」を書き加えた構成となっている。

「藝人(芸人)」は、博士自身であり、
かつ各章で紹介する、広義の「芸能人」である。

中学の同窓生であったミュージシャンの甲本ヒロト、
「言葉の魔術師」時代の古舘伊知郎から、
堀江貴文、湯浅卓、苫米地英人といった「奇人的」実業家・文化人まで、
その「藝人」はさまざまである。

冒頭に「クリスマスプレゼント」という喩えをしたが、
そんなチンケなものとは比べものにならないほど、
博士は豊かな語彙で「暗喩」「伏線とその回収」を繰り返す。
くどいくらいに。もうこれは「言葉の芸術」である。

古舘伊知郎の章では、
さながら古舘が乗り移ったかのごとく、
博士が古舘を「実況」してみせる。

お笑いの世界で鍛えた「言葉力」は、伊達じゃない。

そして博士は取り上げる対象の人物に対する、
「興味」という名の愛情に満ちている。

本の中盤に取り上げる堀江、湯浅、苫米地の3人に対しては
「大風呂敷の変な人間」という評は通底しているものの、
どこか「尊敬の念」をもって、記している。

ただし、客観視し「一定の距離感」を常に置く。

たとえば草野仁については「スーパーマン」と絶賛するが、
どこか茶化した感じが漂う。

逆に、業界の大物、テリー伊藤に対しては、
「過去の行状」「現在の奇行」を併記し、
その人物像をつまびらかにしようとする。

(掲載された時期やメディアが違うというのはあるが)
文体を変えながら、「藝人」を紹介していくが、
甲本ヒロトを再度取り上げる章から、
ダジャレ・隠喩のたぐいが減り、少し重たい文体になっていく。

なので、それまでの章のように「言葉の魔術」を使って
グイグイ引き込んでいく説得力は、やや薄れる感はある。

最終章の稲川淳二についても、
これも朝日新聞の記事をすでに読んでいることもあって
衝撃は少なかった(稲川の家族に関するとある事情。
知らなかった人は、驚くと思うが)。

虚を突かれた、と思ったのは、
「あとがき」である。

それまでも、師・ビートたけしについては
随所で触れているし、最後も「北野武」について記すのだろう、
と思っていたら、実際には、「児玉清」のことを取り上げているのだ。

児玉の著書「負けるのは、美しく」を、
その書名が印象深かったという感想とともに紹介する。

死の直前の児玉との、印象深い仕事、
そして得意の「切り絵」を添えた手紙をもらった話を記し、
「この本を、児玉さんに捧げます」と結ぶ。

なんとも意外であった。

(浅草キッド名義含む)博士の著書、
また本書に取り上げられている書籍の
どれ一つも読んだことはないのだが、
「負けるのは、美しく」だけは読んだことがあった。
それなのに内容を何一つ覚えていなかった。

博士は言う。
「本を読む悦びは結末があることだ」。
そういえば、中盤くらいまで読んで、
ほっぽり出している本が何冊もある。

恥ずかしくなった。

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なぜ、タイトルだけで人は新書を買ってしまうのか?それとも買わないか?

最近、ビジネス系の新書に増えている
「なぜ、○○は○○すると○○になってしまうのか?」という、
疑問形のタイトル。
キャッチーで、かつ「なぜなの?」と思わせるのがミソ。
で、実際にはその答えに触れているのは
書籍中のごくわずかな部分にすぎなかったりする。

火を付けたのは「さおだけ屋はなぜつぶれないのか?」だろう。
この著書を上梓した若い会計士はだいぶお儲けになったそうである。
「会計士はなぜ本を書いて儲けるのか?」という本を書けば、
さらに儲かるのではなかろうか。

…まあ、こういう書名は著者自らが考えるほかに、
出版社やプロダクションの関係者が知恵を絞ることもあるそうだ。

そりゃそうだろう、売れない書名よりも、売れる書名のほうがいいに決まっている。
名前は大事ですからね。

「おいしい刺身の食べ方」という書名よりも、
「なぜ刺身には、ブルーベリージャムをつけないのか?」と
言われた方がドキッとするもんね
(たとえが変なのは許してね)。

出版不況と言われる現代(まあおしなべて全部不況なのが今のニッポンだが)、
少しでも売れるために工夫するのは当然のこと。
ならば、多少書籍の本題からはそれたとしても、
キャッチーな書名をつける方向になるだろう。
しかも新書や文庫は、基本的に装丁が統一されているから
刺激的な書名をつけないと無視されがち。
ネット書店でも、他の書名に埋もれるようなものでは
クリックしていただけないわけである。

ただ、どこもかしこも「なぜ○○なのか?」式の書名で、
多少飽き飽きしてきたのも事実。
みんな慣れちゃって、ちょっとやそっとじゃドキッとしなくなる。
以前指摘したような、テレビで連発される「衝撃」「爆笑」「号泣」と一緒。

「なぜ、本は売れないのか?」
…そんなタイトルを付けても、
海千山千の出版関係者の心には、もう届かないだろう。
そりゃ出版不況にもなりますわな。

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立川流騒動記

「立川流騒動記」立川談之助・著。

立川談志の古参弟子が書き記した、立川談志一代記とも言うべき書である。

筆者は、群馬で生まれ、落語にハマって明治大の落研に入る。
談志の「ぞくぞくするような」高座に惚れ込み、
半ば思いつきで、談志門下となる。

当時の談志は脂ぎって血気盛んな頃。
しかも国会議員でもあった談志に付いての修行は、
血のにじむような3年間だった、と言う。

議員時代の行状や、理不尽な言動など、
談志のいやな部分をいやというほど見ることになる。
もちろん、愛らしい部分もあったと言うが…。

前座修行がようやく終わった…と思ったときに、
「落語協会分裂騒動」、そして「立川流創設」という、大きな出来事が、
談志、そして筆者をはじめとした弟子らを待ち構えていた。

筆者は協会分裂騒動を「円生と正蔵の仲の悪さ」と
「談志と志ん朝の微妙な関係」に尽きるとし、
また、真打ち昇進基準の見解の相違というささいな出来事を
分裂騒動にまで仕立て上げた張本人、フィクサーは
まさに立川談志その人に間違いない、とする
(意外なのは、新協会立ち上げに動いた先代円楽について
「孤立した円生を気の毒に思っての行動だった」としている点。
談志と同じ黒幕だと思っていたのだが…)。

そして重要な分水嶺・談志一門の協会脱退。
一言で言えば「(先代)小さんの政治力のなさ」が原因だ、という。

円生脱退騒動を受け、真打ち昇進は試験制になってしまう。
形だけ試験をやって全員合格、という「ナアナア」にすればいいものを、
竹刀のようにマッスグ過ぎる性格の小さん。
「不合格者も出さないと権威が出ませんよ」と、
周りからの余計な入れ知恵を鵜呑みにしてしまい、
結局不合格者を出してしまう。

しかも技量で合格不合格を選んでいたわけではなかった。
「大御所の弟子なら合格しやすい」など、
不明朗で公平さに欠ける「合格基準」を見抜いた筆者は
当時それを落語の題材にもしていたという。

そんなあやふやな基準で弟子を落とされた談志、
当然の如く怒り狂うが、
マッスグ小さんには談志を取りなす能力もなかった。
そして談志は一門で協会を飛び出てしまうのである。

「立川流」は寄席に出ることができなくなるのだが、
筆者をはじめ、弟子たちは「寄席に出られない」ことで
何も困ることはなかったという。

とくに筆者は、三遊亭円丈らと「実験落語」に取り組み、
一定の成果を上げてもいた。

しかし、あまりに談志サイドにうまく転がりすぎる状況に、
筆者は「談志は最初から協会脱退後の筋書きを
全部用意していたんじゃないか」と、「陰謀論」まで持ち出す。
もちろんジョークめかして、だが…。

先述通り、筆者は談志の人間的に嫌な部分や、
脱退に至るまでのドロドロを、すべて見ている。
そして協会を飛び出た談志は、悪名高い「上納金制度」などで、
やりたい放題を尽くしていく。

そのあとの、談志の人間的にちっちゃい部分を
どんどん列挙するくだりは、必読である。

「晩年、談志の芸は落ちた」という表現も使っている。
快楽亭ブラックですら言わなかった言い回しである。

むしろ、それだけ筆者は、
立川談志という落語家に惚れ込んでいたという証左だろう。

若き日に筆者は、談志の「ぞくぞくするような」高座を目の当たりにしている。
立川流創設後、そのような高座はなくなってしまった、と記している。
そこまで書いておきながら、最後に筆者は談志に対し感謝の言葉を述べ、
本著を締めくくっている。

本書の内容に関し、「談志に一番愛された弟子」立川志らくは
「こんなことを死んでから言うのは卑怯だ」
「死人に口なしで発信するのはバカだ」と
兄弟子にも構わぬとばかりに、だいぶご立腹しているが、
「ずっと身近にいた」からこそ客観視できるわけで、
愛情があるのはむしろ筆者や、快楽亭ブラックのほうであろうと思う。

「談志亡き後の立川流など、単なる親睦団体だ」と切って捨てる。
立川流は、立川談志そのものなんだ、と。
これで愛情がないというなら、なんなのか。

単なる偏愛ではない。一見冷たく突き放しているようで、
やっぱり愛してやまない、談志に対する思い。

生きているうちに言えったって、
聞き分けるような人じゃない。
そこまで分かってこそ、言えることなのだ。


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ザ・浅草芸人 中二階の男 チャンス青木

Chanceaoki


ザ・浅草芸人 中二階の男 チャンス青木

山中伊知郎・著、山中企画発行。
奥付によると本日が発売日である。

タイトル通り「チャンス青木」について書かれたものである。

漫才のナイツが、ネタで「青木チャンス師匠が、チャンス青木師匠に改名したのは
浅草のビッグニュースだった」なんていう小噺を繰り出すのを、
聞いたことがある人もいると思う。
この本の主人公こそ、その漫談師「チャンス青木」である。

はっきり言って「浅草でくすぶる無名芸人」の一人だ。

あのビートたけしとほぼ同期。
芸歴だけは妙に長いが、売れたためしがない…
芸能界にはそんな人はごまんといる。
華やかばかりではないのだ。

この本は、チャンス青木がなぜ売れないか、の理由を羅列したようなものだ。

面倒見はいい。先輩からも「青ちゃん」と呼ばれて親しまれる。
生来の堅い性格から、現在の漫才協会の事務方まで務めたこともある。

しかし自らの芸は不器用で、柔軟性がない。
漫才コンビを結成しては早々に解散することを繰り返しており、
そんな自分の「失敗」を、後輩には経験させまい、と、
舞台上でも自分のウケはそっちのけで、後輩のPRに余念がない。

大御所風を吹かせることもなく、
後輩からいじられることもいとわない。
芸人たちからは愛されていて
酒の席では大いに笑いを取るが、これが客の前ではさっぱり…。

要するに「楽屋番長」タイプなのだ。(*)
青木のことは、この本を読んでもらうこととして…。

で、著者の山中伊知郎である。

早稲田を出て脚本家の仲間入り。「噂の刑事トミーとマツ」などで台本を書く。
その後、放送作家兼ライター(著述家)に転身し、ラジオレポーターなども経験。
著書は、ゴーストなどで関わった書籍も加えれば100を上回るという。

裏方としてお笑いの世界にも飛び込み、その迫力ある容貌を買われ「表方」として、
関根勤のお笑い劇団「カンコンキンシアター」のメンバーだった時期もある。
「イッチー」と呼ばれ、ファンからは親しまれた。

 * 「楽屋番長」チャンス青木は、山中が「カンコンキン」でかつて共演し、
  著書の題材にしたこともある俳優「剛州」に通底するものがある。
  剛州は「楽屋番長」というより「内弁慶」に近いが…。

その関根の所属する大手事務所「浅井企画」とのパイプができ、
お笑いセミナー講師なども務める。

その卒業生の受け皿とすべく、芸能事務所として立ち上げたのが、
この書籍の版元、「山中企画」である。

うまくいけば、売れっ子ばかりの芸能事務所になるはずだった。

しかし「とっこねぇ」「デニッシュ」「波照間てるこ。」など、
山中が魂込めて育て上げた芸人は、どれもこれも鳴かず飛ばず。

売れっ子を輩出することなく、移籍や廃業が相次ぐ。
現在、山中企画は「Theかれー王」なる“カレー店経営者兼タレント”を、
細々とマネージメントしているだけである。

それだけでは収益が出ないので、本書のような書籍出版事業もはじめた、
というわけだ。その割には、売れそうもない題材を選んでくるあたり、
「やりたいことをやる」山中の姿勢の表れだろう。

本書で山中は、チャンス青木を自らと重ね合わせている。
どちらも、「好きな仕事」を、儲からないといいつつ、やめずに続けている。
“チャンス”の前髪をつかみ損ねた、というところも同じ。

いや、正確に言えば、これからチャンスがまだあるんだ、と、
心のどこかで信じて、好きな仕事を続けている、と言った方がいいだろうか。

巻末にも書かれているとおり、
本書の取材を山中が進めている最中に、
チャンス青木は残念ながら病に倒れる。
現在も高座に上がれない状態という。
予定していた出版パーティも、延期したそうだ。

やはりチャンスは、もうないのか…
いや、そんなことはないはずだ。

山中も、ブログで毎日のように「入れ歯が合わない」
「景気が悪い」など、マイナスな言葉を繰り返しつぶやいている。
あげく、書評だけをアップするブログでは「理想の死に方」まで語る始末。

しかし、心のどこかでは「まだどこかにチャンスがある」と思っているはずなのだ。
そうでなかったら、こんな本を発行することもあるまい。

誰の前でも、チャンスの神様がいつかは目を覚ますのだ。

(追記1) 5/31
著者ご本人からコメント頂く。恐縮。
出版パーティーは行っておらず延期したとのこと。
勘違いであった。本文修正済み。失礼しました。

(追記2) 5/31
某有名タレントがTwitterで当記事をご紹介、
アクセスが増えた。
願わくは、著者が望むように、チャンス青木ご本人が元気になって、
メディアにも顔を出してくれることだ。

(追記3)8/23
日経新聞で、漫談家「風呂わく三」が
浅草芸人の代表として、チャンス青木を紹介していた。
どちらかというと「バカウケ芸人」として伝えていた。
ただ、「愛される芸人」という描き方では山中の著書と一致している。

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立川談志の正体~愛憎相克的落語家師弟論~

快楽亭ブラック著、彩流社。1680円。

いやー、胸くそ悪い本だ。(笑)

といったって別に買って損したと思うようなものじゃない。
確かに187ページのソフトカバーで1680円は高いけれども、
著者も版元もマイナーだからしょうがない。

タイトル通りの内容の本である。
昨年暮れに逝去した師・立川談志への、
愛憎半ばする思いをしたためた「入魂の一冊」である。

二代目快楽亭ブラックは談志に入門後、
アメリカ人とのハーフという出自で、見た目も外人風のためか、
本人は名人を自認するも噺家の本筋を外れた道を歩まされる(今に至るまで)。

談志の命で改名を繰り返した末に、現在の高座名に落ち着くも、
自身の私生活の落ち度で立川流を追われる(本書内で弁明もあるが)。

さまざまな方面にケンカを売る性格と、過激な芸風も災いし、
東京で居場所を失い、現在は名古屋を仮の本拠としている。

人となりを知りたければ、ブログも読むとよいだろう。
少し読むだけでいい。1週間サイクルで同じような内容を繰り返しているだけだからだ
(高座に上がって競馬、歌舞伎、旅行に明け暮れ、
他人にたかった弁当かお食事券で腹を満たし、夜は酒をたかる。
その合間に同業者への罵詈雑言。その繰り返し)。

CD、DVDも出ているが、かなり聴く人を選ぶ芸風であることは保証する。

そしてこの本の内容もそうだ。
まあ、人の悪口しか出てこない。
「胸くそが悪い」というのはそれのことだ。

悪口の中心は、もちろん師・立川談志へのもの。

その噺家としての芸を認め、芸に惚れた、と明言はしている。
しかしその性格となるとまあ褒められたものではない、と説く。

特に「カネに卑しい」と談志をこれでもかと責め立て、
最終的に「しみったれ野郎」とののしる。

昨年暮れから、死んだ談志については、各メディアから
うんざりするほどの「礼賛」を聞かされたわけだが、
ブラックはそんな「落語界の金正日」に鉄槌を下していく。

ただし、完全に人間性を否定するような記述は巻末までついぞ見られない。
「愛」と「憎」の両面から談志をさばいてみせてからの、
あとがきの最後の一文にはしびれる。
名文家として名高い快楽亭ブラックの面目躍如である。

胸くそ悪くても最後にうならせるあたりは、
さすがとしか申し上げられない。

その代わり、談志が最後に真打ち昇進を認めた「立川キウイ」を、
談志の代わりにいじめている。

キウイは16年の前座経験を「万年前座」という著書にして話題となった
(談志の死後も少しだけ注目された。
「立川談志の正体」と違い、版元は新潮社で、ハードカバーである)。
「あれが談志の弟子か」と2chやWikipediaで叩かれ続ける希有な存在である。

少し前まではブラックとの交流もあったようだが、
現在はブラックが一方的に「あいつは『くさった果実』だ」と、
ブログで攻撃するだけの関係性である。本書でも同様。

なぜそのような関係性になったかというのは、
本書の巻末に記される『ドキュメント落語』と称する「キウイ調べ」で、
ブラック側の言い分が示されている。

キウイはいいわけせず、ブログで本書を激賛するほどである。
皮肉の可能性もあるが(だとしたらキウイも相当なものである)。

ほかにも談志一門の噺家の名前はちょこちょこ出てくる。
生志などに対しては素直に「上手い」と認めている。

しかしブラックにとっては所詮「ワンオブゼム」に過ぎない。
志の輔も志らくも談春も、だ。

とにかく「立川談志」が、快楽亭ブラックという噺家を
良くも悪くも形づくった、という縦スジは一貫し、
「畏怖」「尊敬」が本書を貫き通している。

談志に「年長者に敬意を示さないのはどうだろうか」と諭す文があるが、
ブラックもこの本でだいぶ先輩に悪口を書いている。
そんなところまで師匠に似るくらい、師匠への愛が満ちあふれている。

死んでから、褒められすぎじゃないのか。
少し、悪口も言ってやらないと本人が気味悪がるだろう。
そんな、弟子の優しさの裏っ返しの本なのだ。

そしてちょっぴり、キウイへのSっ気。
これも愛情の裏っ返しのような気がする。
本書にあるとおり、ブラックは「SMプレイ」に精通している。

そんなブラックなりの、「SとMの極意」を、
キウイへのムチに見た思いである。
そのムチは当然、天の談志にも向けられている。
イヨッ、SMの達人。


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伊藤Pのモヤモヤ仕事術

伊藤隆行・著。集英社新書。

伊藤は現役のテレビ東京社員で、
現在はテレビ番組のプロデューサーを務めている。

書名にもなった「モヤモヤさまぁ~ず2」や、
「やりすぎコージー」といった、
テレ東のヒット番組を手がけている
(ただし、「やりすぎ」はこの9月で終わってしまったが…)。

しかし彼の名を高めたのは、
これも書名にある「伊藤P」としての存在だろう。

「モヤさま」の番組内で、
黒ずくめの服装でふらりと現れては種々の告知をしたり、
画面にチラチラ映り込む、鼻っ柱の高いひょろっとしたオジサマ。
それがこの本の著者、伊藤隆行である。

オジサマといってもさまぁ~ずよりやや若い(まだ30代)のだが、
そのミステリアスな雰囲気は、
まさに「フィクサー」と呼ぶにふさわしい。

そんなフィクサー・伊藤Pが手の内をバラす、という。
どんな「あくどい」方法なのか、気になるではないか。

伊藤が執筆する各章の間には、
「証言者」として、
伊藤をよく知る人物からの「伊藤隆行評」が挿入される。

大江麻理子・大橋未歩(ともにテレビ東京アナウンサー)、
さまぁ~ず(大竹一樹、三村マサカズ)、放送作家・北本かつら、伊藤の元上司…
そしてあとがきには「伊藤の妻」までが登場し、伊藤隆行その人について語っている。

伊藤の書いた部分は6章に分かれ、
籍を置くテレビ東京の置かれた位置から、
そのテレ東でどんな仕事をしてきたのか、
そして、最良の「仕事術」とは何か、を独自の筆致で語り尽くしている。

テレビ東京はその成り立ちからして特殊なテレビ局であり、
「番外地」であり続けた。そこに「なんとなく」入社した伊藤は、
ADを経験し、相当に鍛えられる。

上司にシバかれ、テレビ局の嫌な部分を目の当たりにしていく。
このあたりは今も腹に据えかねる部分はあるようである。

そんな伊藤もディレクターに昇進し、
あのヒット番組「愛の貧乏脱出大作戦」を担当している。

早稲田高校時代に野球部で頑張った過去を持つ伊藤。
ドロップアウトしてしまいそうなテレビの現場で頭一つぬきんでるあたりは、
かなり心身の鍛練された「屈強な男」の一面ものぞかせる。

そしていよいよプロデューサーとなる。伊藤は上司も認める「バカ」の精神で、
バラエティ番組がなりを潜めてしまったテレ東に、
「お笑いの種」をまいていく。
それが「モヤさま」「やりすぎ」に結実したのは、先に述べたとおりである。

一見華やかなお笑い番組のプロデューサーだが、
プロデューサーの仕事は本来地味なものであり、
いばるようなものではない、と伊藤は言い切る。

確かに番組をリードする「社長」的存在ではあるが、
すべては「調整役」であり、上役からは未だに怒られることが多い、とボヤく。

部下に対して怒るときは怒るが、基本的にはその力量を信じ、
自分の見込み違いでも、部下のミスでも泥をかぶる。

そう、伊藤は真の「フィクサー」=「調整役」なのである。
証言でも「部下や仲間にさりげなく気を配る」
「上司に叱られても口に出さない」ことが語られている。

伊藤の文体はある種独特である。

「自分は凡人」「自分はノンポリ」を繰り返し、
「番組作りはこうじゃなくちゃいけないんだ!」と持論を展開しつつ、
最後に「でもやっぱり赤字にしちゃうんですけどね」とオチをつけてしまう。

しかし合間の証言者による「伊藤隆行評」は、
おちゃらけた部分まで暴露しつつ、
結局「伊藤Pがいかに素晴らしい人物か」という内容になっているため、
『やっぱり伊藤Pって凄いんだ』ということが
読者にすり込まれてしまう。

これも、いかにも「フィクサー」らしい巧みな構成である。

まあ悪口はその辺にして。
一見、調子に乗ったキツネ顔に見える伊藤P(やっぱり悪口じゃないか!)の
マジメな、真摯な一面がこの本を通して見られた。

「仕事とは何ぞや?」「組織とは何ぞや?」。
働く人間にとっては、大いに参考になるところである。

そして「テレビとは何ぞや?」。
この問いかけに、伊藤Pは独自の視点で、ここでは明確に解を発露している。

「モヤさま」は都会ではきょう日曜日の夜7時に放送される番組である。
(地方では相変わらず夜中にひっそり放送されてるけど)

この本を読んでから「モヤさま」を見ると、また違った視点で
番組が見られるかもしれない。

ただ、伊藤P自身は、それを望んでいないかもしれないけどね。
「気楽に見てくれたら、いいんですよ。テレビってそんなものですよ」…


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落語の本「落語評論はなぜ役に立たないのか」

広瀬和生・著、「落語評論はなぜ役に立たないのか」(光文社)を読む。

結果からいうと「なんじゃこりゃ」的な一冊であった。

前半は「噺家界はクソつまらん噺家9割、優秀な噺家1割」という、
選民意識に満ちあふれた概況解説。

後半は「天才・立川談志」をけなす奴は俺が許さない、という趣旨の表現を、
手を変え品を変え繰り返しているだけであった。

彼が「落語の神髄・談志を避けるふてえ野郎(こんな表現ではないが)」と
徹底的に指弾する「アンチ談志派」の評論家について、具体名は出さない。
京須偕充とかそのあたりだろう。

一方、ほめそやしたい噺家は具体名をバンバン出してほめちぎるのだが、
どうも「個人崇拝」に見えて、後味がよろしくない。
人をほめているのに気分が悪くなる文章というのも珍しい。

評論家については実名をあげず「一般論」で批判しているのに、
噺家になると「志の輔は素晴らしい」「志らくはサイコー」と、一気に「個人論」に堕ちる。

あのね、いきなり志らくが事故とか心不全で死んだらどうするのよ。
志の輔なんか弟子がノゾキで捕まったし。(笑)

個人愛は続き、例え話で挙げた二宮清純までほめる始末。
いずれ、談志については手放しで、神だ仏だ救世主だといわんばかり。

広瀬の定義に沿えば、評論家の体をなさないであろう吉川潮にも
批判の刃は鈍い。談志一派のお目付け役だからね。

まあ、本来のこの本の趣旨であるべき「評論家はなぜ役に立たないのか」、
というのは、巻末に付録として設けられた、
広瀬による「2010年噺家私的ランキング」に凝縮されている。

立川志らくの高座だけで年間83席も見てるって、
どんだけ金とヒマがあるんだ。しかも噺の内容、覚えすぎだし。

要するに「一般人と俺は違う」「落語評論家なんてクソだ、真の落語愛好者は俺だ」、
と言いたいだけだったんじゃないか。

それでも自分は落語評論家じゃないと言い張る広瀬。
肩書きが「ハードロック/ヘビーメタル雑誌編集長」って…
落語なんか聞かないで音楽聞けよ。

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