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2015年5月

広告にイライラ

一般紙やスポーツ紙のニュースサイトや、
いわゆる「まとめサイト」などを閲覧することが多いのだが、
すぐ表示されずイライラすることが多い。
とくにタブレット端末は一般的に非力なのでイライラ。

原因のひとつが「バナー広告」。
単なる画像ならすぐ表示されるのだが、
最近は大手通販サイトの購入履歴をたどって
関連する商品を勝手にピックアップして
表示させるような広告も出てきている。
上記のような手段を経るので、
その分表示するのが遅くなる、というわけ。

新聞系サイトは「SNSに書き込みできるリンク」が
複数表示されるのだが、これも重い。
Facebook、Twitter、はてな…
そんなの使わないんだけどねぇ。

それと、まとめサイトは広告が異様に多い。
そりゃ当たり前だろ、と言われるかも知れないけど
絞り込んだ方がヒット率上がるんじゃね?
と思う私は素人なんだろうね。
広告少なくした方がいいのなら、
とっくにそうしているはずだから…

スマホ流行りで、ますます「軽いサイト」が
もてはやされるはずなんだけど、
動画広告も出てきたりして、
ネットはますます重量化が進む。
そろそろダイエットしませんか?

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応援歌練習

岩手県で中学・高校生活を送ったことがある者なら、
必ず通過したであろう「応援歌練習」。
新年度になると必ず執り行われる「行事」である。

文字通り「応援歌」を「練習」すること。
それならば、全国的にも行われていると思うが、
岩手県の場合はやや異質である。

特徴としては、端的に言えば「暴力的」ということである。
実際には手を出したりはしないのだが
(ただ、昔は手を出したのだと思われる)。

新入生が(場合によっては2~3年生も)
始業前、昼休み、放課後に集合させられ、
事前に覚えさせられた、高校独自の応援歌(数種類ある場合も)を
そらんじて歌わなければならない。

いまでは大学でも見かけないような、
「バンカラ」の「応援団員」が、
おいお前ら、ちゃんと覚えてきたんだろうな、と
竹刀を振り回したり、机を蹴っ飛ばしたりして「威嚇」する。

さらに団員は、生徒たちが歌っている間に「巡回」し、
うろ覚えの者を見つけると「捕獲」。
放課後にマンツーマンで「恫喝」を受けながらの
追加練習(補修)をさせられる。
もちろんその様子は同級生に「さらし者」となる。
それが数日~1週間は続くのである。

要領のいい者にとっては
「爽やかな青春の一ページ」となる格好だが、
そうじゃない者には単なる「屈辱」「トラウマ」となって、
後年までひきずることとなる。

某ローカルテレビ局がこの「応援歌練習」を
取り上げた特集番組を作る、とのことで、
視聴者からの思い出を募集しているところである。

いっぽう、地元新聞の投稿欄には、
読者による応援歌練習に対するやや否定的な見解が、
立て続けに掲載されている
(皮肉にもこのテレビ局と新聞社は系列会社にあたるのだが)。

個人的見解を申し上げると(察しのいい方は気づいたと思うが)
「否定的な見解」を申し上げる立場である。

はっきり言ってしまえば「前近代的因習」だと思う。
バンカラ団員がドスを利かせて後輩を恫喝する。
戦時体制を想起させるものだろう。

先の新聞投稿にもあったが、
練習が早朝や放課後をつぶして行われることで、
勉強や部活動の大事なスタートアップ時期を失っていることになる。
「そうはいっても1時間かそこらではないか」と
言われるかも知れないが、
この応援歌練習というのは、肉体的にも精神的にも疲弊する。
その上、勉強と部活が続く。

それについてこれる者ならいいが、
世の中そんな要領のいい者ばかりではない。

擁護派の意見として「一般社会に待ち受ける、
もっとつらい事態に耐性をつけるための練習だ」というものがある。

でも、そんなもの、こんな練習ごときで身につきますかね?
むしろ、勉強や部活動の方がもっと実になるのではないだろうか?
(部活動にも問題があることが最近指摘されているが、
ややこしくなるので本稿では触れない)

応援歌練習を支持する者にとっては、
ある意味「郷愁」もあるのだろうし、
自分たちもきつい思いをして経験したのだから、
子供たちにも同じ体験をさせなきゃ気が済まない、
という考え方もあるだろう。
それはちょっと、意地が悪すぎやしないか。

若い時間は短い。
もっと大事なことに時間を使えばいいではないか、
と、個人的には思うのだが。

教師の方にも負担になっているのではないかと想像する。
ただでさえ部活動でも負担なのに、
さらに応援歌練習のせいで早く出勤させられたりしているはずなのだ。

自分が学生の頃は、おそらく応援団上がりであろう教師が
率先して練習を「バックアップ」していたものだが、
教師の負担が増えている今でも
それが通用するとはとても思えない。

Twitterでは「いまの応援歌練習はもっと優しくなっているよ」
なんていうお話しも伺っているのだが、
昔ながらの体制を続けているところも少なくないようだ。

そもそも「応援歌」は「応援する歌」なんだから、
高圧的、強制的に覚え込ませるものではないと思うのだ。
応援する心があってはじめて意味を持つのではないか?

「いや、はじめは高圧的でも、それが一体感を醸成するのだ」
とか、そんな都合のいいことを言う人もいると思うのだが、
ドロップアウトする人を生むような構造で一体感もへったくれもない。

「ついてこれないような根性なしを鍛え上げるためだ」とか言う人。
根性なしをさらなるヘタレに祭り上げるだけだと思いますけど、
違いますかね?

いずれ、全員に強制して覚え込ませるような「行事」が
いまどき必要なのか?と思う。

「青春の一ページ」になっている人からすれば、
「お前は何を言っているんだ」と思われるかも知れないが。

私ですか? 応援歌も校歌も忘れました。(笑)

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さんまのお笑い向上委員会

なんともやっかいな番組である。

26年ぶりに、土曜夜に明石家さんまが帰ってきた…
と言うキャッチフレーズ。

言わずと知れた「ひょうきん族」のことである。
といっても、若い視聴者は
タイトルを聞いたことがあるくらいだと思うが。

準深夜帯ということで、
作り込んだコントとは対照的な「トーク」主体である。

笑い声が常に響き渡る映像からするに、
スタジオの中は大いに盛り上がっていることは
容易に想像できる。

ただ、出演者陣からは、ピリピリと張り詰めた空気感も感じられる。

初回から3回にわたってのゲストは「流れ星」であったが、
第1回目はスタジオに呼ばれず、
2・3回目は居並ぶ先輩の前で
オロオロした表情でギャグを披露するのが精一杯。

良くも悪くも、「お笑いモンスター」明石家さんまが
「太陽」として、スタジオ内のすべてをコントロール。
有無は言わせない。

ベテランの今田耕司、太田光、堀内健が
それなりに暴れはするが、
モンスター・さんまの鋭い目は常に笑っていない。
少しの隙間さえあれば自分も割って入ろうとする。

ほかの中堅~若手芸人は
「話すことを許されて」初めて口を開く程度。

一応は「ゲストの悩みに答え、お笑い文化を向上させる」
というお題目はあり、進行上の台本もあるのだが、
それらはほぼ無視され、
ただただその場その場で盛り上がったギャグを数珠つなぎしていくだけ。

いずれ、すべてはさんまが取り仕切る。

先述通り、ギャグが速射砲のように繰り出され、
スタジオは笑いに包まれている。

ただそれが視聴者に伝わっているかと言えば
必ずしもYesとは言えないだろう。
スタジオの盛り上がりを「整理」して伝えていないからだ。

というか整理することさえできないだろう。
やりたいようにやっているだけなんだから。

そして、出演者陣に張り詰める「緊張感」だけは
ビシビシと伝わってくる。
もしさんまに振られたらどう返せばいいか、
芸人達は常に考え続けているに違いない。

それに当意即妙に返せる頭脳を持つベテランはまだいいが、
若手などはパニクってしかたないだろう。

初回ゲストの流れ星がまさにそれだったはず。
その証拠に、いつもはウケるちゅうえいのギャグが見事にスベり続けていた。

もはや何が面白いのだか、
よくわからないまま、画面からは笑い声だけが聞こえ続けるという
カオス状態の番組である。

はっきり言ってしまえば「視聴者を突き放す番組」だ。
自分たち、いやさんまが自分だけ面白ければいい。
そういう雰囲気で作られている番組である。

なんとかついてこれる視聴者はいいが、
おそらく大方の視聴者は10分とついていけないだろう。
3分、いや1分で脱落する者も少なくなかろう。

この番組、そう長くは持たないような気もする。
見るなら今のうちだろう。

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