« スタッドレスタイヤ | トップページ | 脱原発デモの目的 »

新作VS古典

BSイレブン「柳家喬太郎のようこそ芸賓館」。 10月2日は、三遊亭円丈と夢月亭清麿が登場した。

円丈といえば最近こそ古典に回帰しているが、一時は「古典落語は死んだ」と大見得を切ってみせたほど、新作にこだわってきた落語家。清麿と80年代に「実験落語」という前衛的活動を繰り広げていた。 この両者はいわば「新作の旗手」である。

この日の番組でも、二人は新作を披露した。 清麿は「東急駅長会議」、円丈は(柳家小ゑん原作の)「新・ぐつぐつ」。

「東急駅長会議」は、(電車の)東急の駅長が全員集まって会議を行うという設定。 渋谷駅長は議長も務め大いばりする中、 学芸大学駅長、都立大学駅長は「もう大学なんかないのに」と矛盾した駅名に恨み節。多摩川駅長は「昔は多摩川園駅だった」と昔話。 渋谷駅長と同期の祐天寺駅長は、急行が止まらない悲哀を語る。そんな中、10月9日、東急の日だから、1日だけ「急行停車駅」と「急行通過駅」を入れ替えよう、という動議が。 通過駅長の方が頭数が多いので多数決はすんなり通る。

場面は変わって、その10月9日。 老夫婦が神奈川方面から、菩提寺のある祐天寺駅へ向かうため、「逆・急行電車」に乗る。 日吉駅も菊名駅も、ただのド田舎なのに急行停車駅に 祭り上げられただけじゃありませんか、とおばあさん。「成り上がり駅」をすんなり飛ばして電車が疾走するようすに、 「ウンウン」しか言わないおじいさんは徐々に興奮していく。

そして電車はとうとう、普段飛ばされるはずの祐天寺駅へ。 おじいさんの興奮が最高潮に達したとたん、電車は止まったが、 そのおじいさんも止まってしまった…というひどいオチである。

新作の中でも、かなりぶっとんだ荒唐無稽な設定である。 そもそも駅長全員がそろう会議なんてあるはずもないし、 急行停車駅を総入れ替えなんてあり得ない。

そのあり得ない世界を実現するのが、「落語」なのだろう。

円丈演じる「新ぐつぐつ」はさらに荒唐無稽である。 鍋の中でぐつぐつ煮られるおでんのタネたちが、 下町の井戸端会議のごとく、話し続けるというお話。 4日間、主人から見放されたまま煮続けられる「ちくわ」がいわば「ご隠居」。 ジャガイモの下敷きになり、煮続けられてしまったんだ、と言う。 新入りの「糸こんにゃく」を「腰がないヤツだ」とからかい、ほかのタネとも口げんかするが、腹の破れた「きんちゃく」と淡い恋に落ちる。 しかし主人の気まぐれで、きんちゃくはとうとうすくい上げられていく。 最後にはちくわも主人に見つかり、外界へと旅立っていくのだった。

ストーリーの切れ目ごとに、「ぐっつ! ぐっつぐっつ!」と振り付きで、 おどけた口調の「ブリッジ」が挿入される。 これが笑いを生み、かつテンポを生む。

オチは、ちくわが食べられて「バック! バックバック!」となる。 なんとも設定は幼稚だが、食べられずに残る「ちくわ」の口調には哀愁が漂う。 夢破れた中年~初老の男の「ペーソス」を感じさせるのだ。

「東急駅長会議」「新ぐつぐつ」、ともに「荒唐無稽」な噺である。 しかし、羽織と着物を着た人物が、座布団の上で、 上下を切りながら話しているのだから、これは立派な「落語」なのである。

「落語」=「古い話」「難しい話」というイメージは根強い。 生活が完全に近代化された現代では、その様相はさらに強まる。

いわゆる古典落語は、遅くとも明治時代までに作られたものを指すという。 近世とされる明治時代といえども、江戸時代から続く生活様式には さほど違いはなかったものと考えられる。

「長屋・ご隠居・長火鉢」の古典落語の世界が、 現代人から徐々に乖離しつつあるのは誰も否定できまい。 江戸時代にタイムスリップする手段だった「時代劇」の退潮も著しい。

三遊亭時松という落語家が、定時制高校の生徒の前で「時そば」をやったが リアクションがなくてまいった、とブログに記している。 定時制だから、少し年かさの行った人たちのはずだが、 それでもそうなのだ。

「時そば」のオチが理解されていなかったという。
大体にして、金額が「16文」であり、 時間の数え方が「九つ」。「時そば」のオチの重要なファクターなのだが、 その概念が理解されないようでは、面白くなかろう。

「現代人だって、江戸の生活様式くらい知っている」という「大前提」は、もはや「幻想」になりつつあることを、落語家は知っておくべきなのかもしれない。

よく言われることだが、「古典といわれる噺も、昔はみんな新作だった」のだ。 作られた当時は、当時の最先端の流行、風俗に基づいたはずだったのだ。

それが今では、「日本昔ばなし」になってしまう。

落語のジャンルで一大勢力である「廓噺」も、 いまでは「犯罪行為」が前提のストーリーになってしまう。 「お見立て」も「五人廻し」も「居残り左平次」も。

「芝浜」はアル中の話で、「らくだ」は威力業務妨害。「たがや」は殺人で、「柳田格之進」は売春と銃刀法違反である(笑)。

とにかく「古典落語」は、「面白い話」であるはずが、聴く前から「古い話」「昔話」と片付けられる「ピンチ」にあるのだ。

いや、そう毛嫌いしないでさぁ、聞けば面白いから…といくら力説したって、 先入観をもたれてしまったらこれはどうしようもない。

柳家花緑は、落語家のシンボルである「和服に座布団」をやめ、普通の洋服を着て、椅子に座って現代設定の落語を演じる試みも行っている。

眉をひそめる向きも多いだろうが、落語が死に絶える危機を前に、 型を守らんとすることばかりが正しいのか? それはかえって座して死を待つことにならないか?

いまはまだ、落語もある程度、国に保護してもらっているが、橋下徹のように「古臭い古典芸能を守ることは無駄である」と切って捨てる為政者も出てきている。

だったら落語など死に絶えればいい、漫才やコント、リアクション芸(爆!)が残ればいい、 と言う人も、いるかもしれない。本職落語家でさえ、「落語のアイデンティティを否定するような落語をやらされるのなら、もはや落語は封印しよう」…そう言うかもしれない。

いや、それはあまりにもったいない。

落語は日本人の叡智が生んだ最高の芸術ではないか。違いますか?

一人しゃべりで近いのは、アメリカのスタンダップコメディあたりだろうが、 あれと落語をゴッチャにすべきか? 違うだろう。 落語は落語なのだ。

その落語を守るためには、古典ばかりをありがたがることが、本当に正しいのか。「談志の芝浜は最高だった。昭和の終わり頃がよかった」「志ん朝の文七元結、しかも三越劇場でやったときのが一番だ」…あと10年経っても、それを言い続けるのか。

古典を一斉にやめて新作に移行すべし、などと言うのではない。 古典には捨てがたい魅力がある。 数々の演者が磨きに磨いてきた「蓄積」がある。 ただ、それは「ビギナー」には理解されにくくなっている、というだけのことだ。

「噺の話」「寅おやじの酒々雑多記」「HOME★9」「藪井竹庵」「はじめのブログ」… さまざまな落語会を訪れたり、過去の名演落語のうんちくを傾ける、 落語通ブログの数々である。いったいいつになれば我々浅学の徒は、落語をこの人たちのように楽しむことができるのか、 と暗澹たる気持ちになるが…、もう無理だろう。

とくに若い世代には、こういった往年の落語ファン達が堪能してきた「古典落語の世界」が、 「理解不能な世界」になっていくことは容易に想像できる段階にある。

演者、ファンともに、古典至上主義を抱くなら、それは捨て去るべきときに来ていると思う。 死に絶えんとしている江戸文化を前提としている古典落語は、若い世代、次の世代には理解してもらえないからだ。

今はまだ、理解できる層が存在しているから、継承していくことも大事だ。しかし古いものだけに固執するのは危険だ。 新しいものを生み出していかない限り、落語は必ず死に絶える。

立川談志は、落語はかくあるべき、という格言をいくつか遺したが、その一つに「落語は"江戸の風"が吹かなければならない」というものもあった。しかしそれは、江戸の風の匂いが分かる人がいてこそのものである。

重複するが古典を否定するわけではない。 しかし新作を否定するのもいけない。

新作落語を貶める落語ファン、落語マニアこそ、静かにフェードアウトしてもらうべきだろう。 自然とそうなるような気もしているけれど。

「東急駅長会議」にしろ「新・ぐつぐつ」にしろ、「あんなの落語じゃねー、ただの漫談だ」と片付けるのは簡単だ。しかしそのうちに、「牛ほめ」や「道灌」、「佐々木政談」が、「そんな文化、日本にあったのか?」と言われるようになるかもしれないのだ。

そしていまの新作が、そのうち古典になって、今の古典のようにありがたがられるかもしれないのだし。

|

« スタッドレスタイヤ | トップページ | 脱原発デモの目的 »

「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/17134/55807421

この記事へのトラックバック一覧です: 新作VS古典:

« スタッドレスタイヤ | トップページ | 脱原発デモの目的 »