落語は都会のもの
愛知県のイベントプランナーみたいなオバサンのツイートが、
リツイートの波で流れてきた。
田舎のジジババが変なタイミングで笑ったのに腹を立てたという
立川談志のドキュメンタリー映像を引き合いに出し、
「落語は都会で聴くものだ」「"田舎者"の客はヤボってものだ」。
少し腹が立ち、「田舎者で悪かったね」みたいなツイートを吐いたら、
リプライしたわけではなかったが、めざとく見つけてこられて謝られた。
「田舎在住と"田舎者"は違う意味で書いたつもりだったけど…」
そんなこと言われても、ねぇ。
まあ、でもこのオバサンの言うことにも一理あるとは思う
(いちおう、そういうニュアンスを込めたツイートをしたんだけどね)。
結局、落語というモノは都会で生まれた(あるいは洗練された)文化なので、
田舎者が口を出すのは「野暮」なのだろう。
ラジオやテレビといったメディアによって、
地方在住者でも落語を享受できるようにはなったが、
落語の本拠地たる「寄席」に常日頃触れられるのは、
せいぜい東京近郊、上方なら大阪近郊に住んでいる人に限られる。
「寄席日記」や「HOME★9」を、
生の寄席やホール落語情報を得るために購読しているが、
読んでて腹立たしくなってくることもある。
贅沢すぎるんだもの。
「昨日の高座のほうがよかった」なんて毎日のように書かれたら。
その最たるものが「ミスター落語評論家」広瀬和生か。
あるいは「ずんずん落語評論家」堀井憲一郎とか。
しょせん、田舎にいればそんな幸福に浴すことはできない。
立川談志は「江戸の風を伝えることが落語には大切だ」と説いている。
江戸=いにしえの東京。
田舎はダメなのだ。ヤボなのだ。
落語でも、田舎者は嘲笑の対象である。
「五人廻し」「お見立て」「手水回し」「勘定板」…。
「金明竹」もある意味そうかな。
落語に出てくる田舎者は、「江戸の粋」が分かっちゃいない
「愚鈍な人物」として、東北弁と九州弁をゴッチャにしたような
「田舎弁」を使って描かれる。「五人廻し」のお大尽なんか典型的だ。
…もう、田舎者は割り切ってしまうしかない。
いくらがんばっても、我々田舎者は江戸っ子にはなれないのだ。
田舎者なりに、落語を楽しむ。これでいいのではないか。
寄席はなくとも、市民ホールや公民館に噺家が来てくれるじゃないか。
「五人廻し」のお大尽も、仲間だと思ってしまおう。
東京の半分以上は田舎者でできている。
落語家も地方出身者が大半だ。そう思えば、気楽なもんだ。
広瀬和生みたいにやたら寄席通いするのは「落語中毒患者」と思って笑ってしまおう。
落語を「つまみ食い」できる贅沢を味わおうではないか…
ウーン、無理があるか(笑)
とにかく「落語は都会のもの」であることを無理に覆そうとせず、
適度にヒガミながら、自然体で付き合いましょう、ってことで…。
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